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<社説>週のはじめに考える 「このぐらいは」の怖さ:東京新聞 TOKYO Web

 東京ディズニーランドで、ごみが散乱している様を目にすることは結構難しいことのようです。ごみが落ちていても、大勢いるカストーディアル・キャスト(維持・管理担当の従業員)が、たちどころに、きれいにしてしまうからです。閉園後は閉園後で、ナイト・カストーディアルと呼ばれる夜間の担当者らが園内を、文字通り磨き上げるのだといいます。

 コロナ前の数字だと、ディズニーシーと合わせて、入場者は実に年間三千万人ほど。それだけの人が集まるのですから、絶え間なく清掃し続ける文化、「夢の国」を「夢の国」のまま維持するという精神がなかったら、あっという間に「ゴミの国」になってしまうのかもしれません。

◆熱に浮かされ「軍介入を」

 似たことは、民主主義にも言える気がします。人々の守り続けようという気持ちが少しでも緩んだら、あっという間に崩れ去る恐れがある−。そう思わせる出来事がまた最近、起こりました。

 昨年十月のブラジル大統領選で左派のルラ元大統領に敗れたボルソナロ前大統領の支持者ら約四千人が、選挙は不正だったとする前大統領の主張にあおられた形で、連邦議会や大統領府などに押し入った、あの一件です。

 一昨年一月、トランプ前米大統領の支持者らが連邦議会を襲撃した事件を想起するのも当然。右派ポピュリストの政治家が選挙結果を受け入れず、確たる根拠もなく選挙に不正があったと言い募り、挙げ句、それを覆すべく支持者をたきつける−という構図は共通です。根幹制度である「選挙」の信頼を貶(おとし)め、暴力によって「法の支配」を無視したのですから、襲撃されたのは、民主主義そのものだったと言っていいでしょう。

 ブラジルの事件では、ボルソナロ氏が軍出身だからか、支持者らが盛んに「軍の介入」を求めました。幸い、軍は自重しましたが、「もしも」と考えれば、彼(か)の国の民主主義がかなりの瀬戸際まで行っていたことが分かります。

 ブラジル国民は、民主的な選挙結果を踏みにじってクーデターを起こしたミャンマー国軍と、その後の暗黒支配を思い起こす必要さえなかったはずです。ブラジル自体が、一九八五年まで約二十年もの間、軍事独裁政権下にあったのですから。今回の事件では、やっと手に入れた民政、民主主義の体制を自ら投げ出すような発想が、たとえ熱に浮かされた右派ポピュリスト政治家の支持者とはいえ、国民の側から出てきたという点がとりわけて衝撃的でした。

◆空しいゴルビーの「遺言」

 ロシアについても似た感慨があります。冷戦終結の立役者で、昨夏亡くなったゴルバチョフ元ソ連大統領。自身が始めた民主化改革に起因するソ連崩壊の奔流にのみ込まれて政治の舞台からの退場を余儀なくされ、九一年十二月二十五日、大統領辞任のテレビ演説に臨みます。自由選挙、報道の自由など民主化の成果を強調した上でこう国民に呼びかけました。「(そうした成果は)これまでの悲劇的な苦痛があってはじめて実現したのだから、いかなる状況や理由があっても、放棄してはならない」

 しかし、その後のロシアを見てください。今や、プーチン大統領は事実上の独裁者です。真の自由選挙も報道の自由も失われ、「悲劇的な苦痛」の代償として一度は民衆が手にしたはずの民主主義的な成果は、ゴルバチョフ氏の願いも空(むな)しく、もはや、どこかに霧消してしまっています。

 ミャンマーのクーデターのように大政変があって、一気にそうなったというわけではないのです。プーチン氏も最初から今のようなプーチン氏ではなかったはず。非民主的な政策や振る舞いにも、国民が「このぐらいは」「あの程度なら」と油断し、許容するうち、民主的な成果は次第に失われていき、気がつけば、指導者がツァーリ(皇帝)に擬せられる強固な権威主義国家になっていた、ということなのではないでしょうか。

◆民主主義の「維持・管理」

 思えば、国民の信を問うことさえないまま、安全保障上の国是とも言える「専守防衛」をかなぐり捨てようとする岸田政権の行いなど、到底、民主主義的とは言いがたい。こういうことを「このぐらいなら」と看過していくことの怖さを考えずにはいられません。

 民主主義は、少しぐらい油断して、それに反することに目をつむっていても、しっかり維持されるほど頑丈でもメンテナンスフリーでもない、ということでしょう。常にちょっとした汚れも見逃さないよう目を配り続ける。いわば、私たちは民主主義のカストーディアル・キャストでなければならないのかもしれません。



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