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ヤマトンチュに教える沖縄 83歳のジャーナリスト森口豁の生き様:東京新聞 TOKYO Web

 1959年に米軍統治下の沖縄に本土から渡り、沖縄戦や米軍基地に苦しむ人々の姿を伝えてきたジャーナリスト森口かつさん(83)=千葉県松戸市=を追ったドキュメンタリー映画「ぬちかじり 森口豁 沖縄と生きる」が完成した。撮影・監督を務めた永田浩三・武蔵大教授(65)は「沖縄にどうアプローチするのかを、私たちヤマトンチュ(本土の人)に教えてくれる案内者」と話す。(石原真樹)

沖縄戦について語る森口さん(左)を撮影する永田さん=2019年5月撮影

沖縄戦について語る森口さん(左)を撮影する永田さん=2019年5月撮影

◆首里城の火災につぶやく「オスプレイか」

 映画は、昨年10月31日に起きた首里城(那覇市)の正殿などが焼失した火災を報じる琉球新報の大写しで始まる。続く場面で、焼け落ちた現場に立った森口さんは「まさかオスプレイが落ちたのか(と思った)」とつぶやく。今年2月に撮影したシーンだ。

 永田さんは「燃えた首里城を見て、普通はあんな言い方をしない。たくさんの基地被害を見続けてきたからこそ」と話す。森口さんが琉球新報の記者として沖縄で働き始めて半年もたたない59年6月、うるま市の宮森小学校に米軍機が墜落し、小学生を含む18人が犠牲となった。74年に本土に戻った後も沖縄取材を続けた原点という。

◆余命1年の宣告…沖縄の旅へ

 永田さんは5年ほど前、渇水にあえぐ沖縄の離島の住民を捉えた森口さんのテレビドキュメンタリー「乾いた沖縄」(63年)を見て胸を打たれ、その後、2人の交流が始まった。

 永田さんは昨年2月、森口さんから一緒に沖縄に行こうと誘われた。同じころ、森口さんはがんで余命1年を宣告されていた。翌月に沖縄に飛び、集団自決が起きた読谷村よみたんそんや宮森小などを巡った。

映画の一場面。首里城を訪れた森口さん ©永田浩三

映画の一場面。首里城を訪れた森口さん ©永田浩三

 永田さんは「最後の別れになるかもしれない」との思いから、森口さんが旧知の人々と話す様子などを撮影し続けた。2人の沖縄への旅は計5回に及んだ。記録に残したいという思いを強くした永田さんは、それらの映像を基に、映画化を決意したという。

◆「踏みつけていいのか」白いサンゴ礁のかけらに

 映画の序盤、沖縄県南城市の新原海岸で白いサンゴ礁のかけらを見た森口さんが「戦没者の骨に見えて、踏みつけていいのか?という気持ちで歩いた」と語る場面がある。

 沖縄の人たちの誇りや尊厳に一貫して寄り添い取材を続けてきた森口さん。沖縄の苦悩の根源には沖縄戦があり、自身も沖縄の人たちを苦しめるヤマトンチュという意識も持ってきた。

永田浩三さん

永田浩三さん

 カメラは、沖縄の日常のあちこちに沖縄戦の歴史を感じずにいられない森口さんの心の内側を鮮明に映し出す。永田さんは「森口さんは、沖縄に対するヤマトンチュの暴力と米軍の暴力を学ぶことをずっと忘れずにいる」と語る。

 東京都練馬区で開催中の「ねりま沖縄映画祭2020」のプログラムとして、映画の上映会とトークイベントが31日午後2時半から武蔵大江古田キャンパスであり、今も闘病中の森口さんと永田さんが登壇予定。問い合わせは映画祭実行委員会=電090(8311)6678=へ。

もりぐち・かつ 1937年東京都生まれ。ウルトラマンの生みの親として知られる故金城哲夫さんに誘われて高校生だった56年に初めて沖縄を訪問し、58年に都内の大学を中退し、琉球新報社に入社。東京支社勤務を経て59年から沖縄で記者として働く。63年に琉球新報社を退社、日本テレビの沖縄特派員に。74年に東京本社勤務になり、90年からフリー。ドキュメンタリー「ひめゆり戦史・いま問う国家と教育」(79年)などでテレビ大賞優秀個人賞。昨年、「紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人・池宮城秀意の反骨」を出版。


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