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『上野山内月のまつ』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第75回 | nippon.com

歌川広重『名所江戸百景』では第89景となる「上野山内月のまつ」。桜の名所として知られる寛永寺境内で、しっとりとした秋の情景を描いた一枚である。

江戸の新名所から不忍池対岸をのぞく

上野山内とは、当時は徳川将軍家の菩提寺「東叡山寛永寺」の寺領、現在の上野恩賜公園一帯のことである。境内に入って間もない、不忍池を見渡せる高台に清水観音堂があり、舞台下の斜面には、枝がくるりと円を描く「月の松」が立っていた。

広重はこの松を、春の景『上野清水堂不忍ノ池』でも描いている。花見の名所として知られる清水堂は人でにぎわい、桜の薄紅色とお堂の朱色が華やかな雰囲気で、遠目に見る月の松は脇役を務める。人の気配がない今回の絵は対照的に、秋らしい哀愁が漂う。荒々しい木肌が分かるほどクローズアップし、月の松の幹と枝を「枠」として配置した。不忍池の向こう岸は町屋が並ぶ茅町(現・台東区池之端)で、その奥には湯島や本郷の大名屋敷が続くが、夕焼けをバックにしたシルエットは静寂な雰囲気を醸し出している。

輪の右下には、中島弁財天社(現・寛永寺不忍池弁天堂)の左端と、その周辺の茶屋などが見える。不忍池のシンボルだけに、輪の中心に置いても良さそうだが、広重が月の中に描いたのは、対岸の景色の中にそびえる火の見櫓(やぐら)だ。幕府の定火消(じょうびけし)出身の広重は火の見櫓への思い入れが強いせいか、今回の絵には3つも登場する。月の中に立つ櫓の場所には諸説あり、本郷の加賀藩上屋敷(現・東京大学)内のものだという説が有力だが、弁財天の位置を考慮すると、もう少し南を向いているようだ。そうなると、湯島聖堂近くにあった定火消屋敷(現・順天堂大学内)のものではないかと筆者は考えている。

月の松は、比較的新しい名所で、存在したのはごく短い期間だけだったと思われる。『名所江戸百景』の約20年前に発行された『江戸名所図会』の「清水堂花見」(1836刊)には月の松は見当たらず、広重自身が手掛けた『絵本江戸土産』の「清水堂花見」や『東都上野花見之図・清水堂』にも登場しない。筆者の知る限り、月の松が登場する他の絵は、広重と同い年の歌川国芳が描いた『東都東叡山の図』しかないのだ。

国芳の『東都東叡山の図』(国会図書館蔵)は、1847(弘化4)年から52年(嘉永5)年の間に発行された作品。3枚つづりの左端に月の松が登場する
国芳の『東都東叡山の図』(国会図書館蔵)は、1847(弘化4)年から52年(嘉永5)年の間に発行された作品。3枚つづりの左端に月の松が登場する

明治初期の嵐で、月の松は消失したと伝わる。上野戦争で境内を焼かれた後、立ち入り禁止になっていた頃のことで、詳細な記録は残っていないという。

浮世絵の中だけに記録されていた月の松は、寛永寺によって約150年後の2012年末に復活した。問い合わせたところ、元の場所は東京都の管理地になっているため、寛永寺敷地の清水観音堂のすぐ下に植えたそうだ。今では斜面に茂った木々が遮り、清水の舞台から不忍池は一望できないが、月の輪っかの内側からは弁天堂と参道をわずかにのぞける。

枝の形を維持する布テープで木肌が見えないのを残念に思いながら、輪になった枝を大きく配してシャッターを切った。秋晴れの休日だったこともあり、弁天堂の参道にはたくさんの人々が写り込む。元絵の雰囲気とは少し違うが、「芸術の秋」「行楽の秋」でにぎわう光景に現代の上野らしさを感じ、題箋と落款だけをコラージュして作品とした。

●関連情報

東叡山寛永寺 上野恩賜公園

天台宗の別格本山・寛永寺は、家康から秀忠、家光までの3代にわたって将軍の参謀役を務めた慈眼大師・天海が1624(寛永2)年に開山した。天台宗総本山「比叡山延暦寺」が京都御所の鬼門(北東)を守るように、寺領の上野忍岡(しのぶのおか、しのぶがおか)は江戸城の鬼門に当たる。山号を「東の比叡山」を意味する「東叡山」とし、寺号は延暦寺同様に元号を使用する勅許を得た。

天海は延暦寺に倣うだけでなく、京都周辺にある神社仏閣に見立てた仏堂や社を境内に造ることで、権威を高めようとしたという。清水観音堂は京都東山の清水寺、不忍池の中島弁財天社は琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺(ほうごんじ)に見立てて建立し、それぞれの本尊を勧請(かんじょう)している。

当初の寛永寺は将軍家の祈願寺だったが、家光の葬儀を行い、4代家綱の霊廟(れいびょう)を上野山内に造営したことで芝・増上寺と並ぶ菩提寺となった。全盛期には36もの子院があった境内は、現在の上野恩賜公園を中心に不忍池弁天島や東京藝術大学のキャンパス、日暮里駅の南にある谷中霊園東部までの約35万5000坪にもおよぶ。JR上野駅不忍口から歩いてみると、上野公園を抜けて谷中まで約30分くらいかかるので、当時の寺領がいかに広かったかが実感できる。

『安政改正御江戸大絵図』(国会図書館蔵)から、寛永寺周辺を切り抜き、寺領を朱色で囲んだ。左下「加州」と書かれた加賀百万石・前田家上屋敷と比べると、広さは一目瞭然だ。黒丸は『上野清水堂不忍ノ池』から推定した月の松の位置。左上の「千駄木御林」は寛永寺で使われる薪、炭、護摩木を供給する林だった
『安政改正御江戸大絵図』(国会図書館蔵)から、寛永寺周辺を切り抜き、寺領を朱色で囲んだ。左下「加州」と書かれた加賀百万石・前田家上屋敷と比べれば、広大さは一目瞭然。黒丸は『上野清水堂不忍ノ池』から推定した月の松の位置。「千駄木御林」は、寛永寺で使用する薪や護摩木を供給する林だった

明治以降の上野山は「文化の杜(もり)」へと変化していく。江戸城の無血開城後も武装解除しなかった彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争では寛永寺の旧境内は焦土と化した。その後、全域を明治新政府に接収され、しばらく立ち入り禁止が続いたが、1873(明治6)年に日本最初の公園として指定を受けて2年後に正式開園した。翌年には本坊跡地で内国勧業博覧会が開催され、81年の第2回博覧会で使用されたレンガ造りの建物が現在の東京国立博物館へとつながり、上野動物園も開園した。その後、国立科学博物館や東京都美術館、ユネスコの世界文化遺産に登録されている国立西洋美術館などに加え、東京藝術大学や国際子ども図書館など続々と文化施設が誕生した。

現在の上野公園は、家族連れやアートファンを中心に四季を通じて人が多い。「芸術の秋」には特別展やイベントが開催され、花見シーズンに負けないほどのにぎわいを見せている。清水観音堂や上野東照宮、五重の塔など、国の重要文化財に指定される建造物も園内に点在し、少し足を延ばせば寛永寺の根本中堂や開山堂、徳川歴代将軍御霊廟などもあるため、歴史散歩を楽しむ人の姿もよく見かける。

公園指定の6年後に寛永寺は復興を認められ、将軍家霊廟に近い子院・大慈院跡地に、天海が住職を務めた川越・喜多院から根本中堂(重要文化財)を移築した
公園指定の6年後に寛永寺は復興を認められ、将軍家霊廟に近い子院・大慈院跡地に、天海が住職を務めた川越・喜多院から本堂の根本中堂(重要文化財)を移築した

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」作品一覧はこちら

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