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台湾アイデンティティーの現場:東京に埋もれた「台湾議会運動」の歴史を探る | nippon.com

筆者はかねてより「東京散歩」を通して、近代台湾における第1世代の啓蒙者を知ることはできないかと思案を巡らせている。それは東京を散歩することで今から100年前の東京で初期の「台湾アイデンティティー」がどのように形成されたのかを知るということだ。2020年は新型コロナウイルスの蔓延(まんえん)により計画の大部分がストップしてしまったが、思いがけず東京の路地裏を散歩する時間が増えたことで、東京の奥底に埋もれていた「台湾の歴史」を次々と発見することができた。本記事では1921年1月に正式に展開し、15年間にわたり台湾と東京をつないだロビー活動「台湾議会設置運動」の歴史的場面を紹介したい。

高砂寮:東京に存在した「台湾学生運動のゆりかご」

かつて高砂寮があった場所には、老人ホームが建っている。(筆者撮影)
かつて高砂寮があった場所には、老人ホームが建っている(筆者撮影)

台湾で最も早く日本国民教育を受けた世代は、1910年代から近代高等教育を受けるために日本へ留学した。当時、台湾総督府は台湾を統治する人材を育てるために2つの方策を取っていた。1つは、東京・文京区の茗荷谷(みょうがだに)に「拓殖大学」の前身である「台湾協会学校」を設立したことだ。そして、もう1つは同校の門に面する山の斜面に台湾人留学生のための寄宿舎「高砂寮」を建設したことである。

台湾人の日本留学が始まった当初、多くの留学生が最初に落ち着く場所は「高砂寮」だった。歴代の寮生名簿を開くと、大物の名が次々と出てくる。たとえば台湾の近代美術の先駆者で彫刻家の黄土水、台湾の地方自治運動で活躍した弁護士の蔡式榖、日本統治時代の最も重要な政治活動のリーダーである楊肇佳、日本の高級官僚となり、戦後に台湾人のための学校「延平学院」を設立した朱昭陽らは、いずれも高砂寮の寮生だった。

19年に茗荷谷の丘に完成した高砂寮からは山と海を望むことができた。寮内は寝室以外に自習室や談話室、クラブ活動のための部室があり、共同浴室の他、台湾の故郷の味が提供される食堂もあった。

1920年代に入ると、比較的開放的な政治の雰囲気と自由な校風の影響を受け、高砂寮は同時期に日本各地に存在した「学生自治寮」と同様、台湾人学生が新しい思想に触れ、思弁する思想空間となった。高砂寮の学生自治グループは討論会や読書会を主催し、当時、東京で活躍していた台湾人学生ばかりか、社会運動に情熱を注いでいた蔡培火や林獻堂までが高砂寮の活動に参加していた。

20年代の高砂寮は、台湾語が飛び交い、台湾の風が吹く「台湾の飛び地」のような場であっただけでなく、新しい文化や思潮が沸き起こり交錯する東京で育まれた「台湾アイデンティティー」のゆりかごでもあったと言える。

1920年11月28日、麹町区(現・千代田区)の富士見町教会で、200人余りの台湾人留学生が台湾総督に台湾における立法権を与えたいわゆる「六三法」に反対する政治集会に参加した。集会では、民主運動家の林呈禄が「台湾議会」という新しい政治計画を提出。この計画が後に台湾民族運動の主旋律となる「台湾議会設置運動」への道を拓いたと言える。この日本留学がまだそれほど普及しておらず、台湾人留学生の総数が数百人ほどだった時代、留学生の大部分が高砂寮の学生だったのだ。

だがこの台湾史における「学生運動・第1世代」は、「礼儀正しさ」は持ち合わせていなかったようだ。高砂寮は「政治運動の中心地へと堕落した」として、21年、28年、そして30年の3度にわたり閉鎖されている。28年3月には数十人の台湾人留学生が、日本籍の寮長を袋叩きにして全治1カ月の重傷を負わせ、さらに通報を受けて駆け付けた警察にも暴行を働き、負傷させた。

戦後、高砂寮は「清華寮」と改名され、台湾の新たな統治者となった「中華民国」所有の学生宿舎となったのだ。そして1972年に日本が中華人民共和国を承認し、中華民国と断交したことで、中華民国が有していた高砂寮の所有権を中華人民共和国が引き継ぐかどうかの議論が行われたが、結局、その所有権は宙に浮いたまま放置された。こうして廃墟同然となった高砂寮は、2007年に原因不明の火災が発生し、13年に正式に取り壊された。

そして現在、高砂寮跡地にあるのは立派な老人ホームだ。戦後、台湾が複雑な歴史を歩む中、偶然にも残っていた遺構は、ついに風の中へと消えていった。

台湾史上初の海外政治キャンペーン:東京駅「台湾議会請願代表団の歓迎式」

現在東京駅丸の内北口の井上勝氏の銅像(撮影:鄭 仲嵐)
現在東京駅丸の内北口の井上勝氏の銅像(撮影:鄭 仲嵐)

大きな歴史的事件には、必ずその象徴となる写真が存在するものだ。人の歴史認識は、その象徴的な写真によって築かれることが多い。「台湾議会設置運動」を代表する写真は、1923年2月21日に、東京駅丸の内口前の巨大な銅像の前で撮影された台湾議会設置を求める代表団の集合写真である。写真には数百人が写っていた。

この年、代表団が台湾から東京に来るためには、まず台湾北部の基隆港から船で日本に向かう必要があった。代表団は北九州の門司港で船を乗換え、瀬戸内海経由で神戸に上陸、さらに汽車に乗って、ようやく東京に着いたのだ。

この日、社会活動家の蔣渭水ら代表団が東京駅に降り立ったときには、駅の外ではすでに数百人の台湾人留学生や日本に住む台湾人が集まっていた。彼らは正装し、歓迎の言葉を記した大きな横断幕を持ち、スローガンを叫びながら、議会設置運動の主題歌「台湾議会請願歌」を歌って代表団を出迎えた。人々は台湾から来た「政治の星」を取り囲み、東京駅前の巨大な銅像の下で集合写真を撮影した。その光景はまるで今日の台湾選挙戦の集会のような熱狂的なものだった。

現在も東京駅丸の内口に銅像がある。この銅像の人物は日本の鉄道の父・井上勝だ。井上勝は長州藩出身、青年時代に「長州五傑」の1人として英国に留学、帰国後、近代鉄道事業の中心となった人物である。

しかし、今、東京駅にそびえる井上勝像と、台湾議会設置運動の写真に写っているものを見比べると、その細部が少し異なる。この2つの銅像が別物であることが分かるだろう。

1923年以来、毎年、台湾議会設置運動キャンペーンの写真に写っている井上勝像は、14年に建立されたものだ。しかし、この銅像は太平洋戦争末期の「金属類回収令」により強制徴収され、無数の国宝と共に溶かされ、無情な戦火に散っていった。

現存する井上勝像は、戦後、59年に新たに建立されたもので、彫刻家・朝倉文夫の晩年の傑作だ。朝倉文夫は、前出の高砂寮・寮生で台湾人として初めて帝展に入選した天才彫刻家・黄土水の東京美術学院時代の指導教官である。

選挙集会をはじめとする政治キャンペーンが好まれる台湾の政治活動は、日本の政治活動とは全く異なり、一種の文化であると言える。筆者は厳密に考察したわけではないが、台湾の政治キャンペーン文化は、日本統治時代の台湾政治運動で芽生えたものであり、同時にコミュニティを動員する役割がある伝統的な民間信仰の集まりが形を変えたものかもしれない。そして台湾史上で初めて海外で行われた大規模な政治キャンペーンは、23年2月21日の台湾議会設置運動・代表団の歓迎式に違いない。

台湾史上初の「海外拠点のロビー団体」を探して

牛込若松町にあるかつて台湾議会期成同盟会兼台湾雑誌社の住所で、現在は普通の民家。(筆者撮影)
牛込若松町にあるかつて台湾議会期成同盟会兼台湾雑誌社の住所で、現在は普通の民家。(筆者撮影)

実際に、台湾人が台湾社会のために初めて島外で展開したロビー活動は、1920年代の台湾議会設置運動にさかのぼることができる。その台湾議会設置のロビー活動のために、台湾人が初めて組織した団体が、23年に東京で結成した「台湾議会期成同盟会」だ。

その本部は、新宿区若松町の民家だった。ここは雑誌『台湾』を発行する出版社の所在地でもある。『台湾』の前身は1920年7月に創刊された『台湾青年』だ。『台湾青年』は史上初の台湾人による政治的メディアだ。その後、『台湾』は同じ住所で『台湾民報』として再創刊。若松町の住宅地にある民家にその身を隠し、1920~30年代の台湾民族運動のなかで、文字による言論の普及を担う出版社とロビー活動の大本営を兼ねた。

今日の台湾の政治家が訪米した際に、ワシントンにある台湾独立を目指すロビー団体「台湾人公共事務会(FAPA )」の本部で写真を撮影するように、歴史的資料の中には「牛込若松町」の住宅の前で撮影した「大物」たちの記念写真を見つけることができる。この歴史的な現場を見つけるために、私はデジタル映像ライブラリーの中から「牛込若松町138」という住所を探し出した後、日本の新旧の地図を重ね合わせられるウェブサイトを利用し、その位置を確認することができた。

地下鉄の早稲田駅を出て、早稲田大学とは反対方向の坂道をのぼった先にあるのが、牛込若松町一帯の住宅地だ。若松町に通じる道は「夏目坂」という美しい響きを持つ。文豪・夏目漱石の生誕の地であることにちなんで名付けられたという。

延々と続く夏目坂を上り切って右に進む。そこには「下戸塚坂」という小道がある。この一帯にあるのは旧い民家だ。さすがに台湾議会期成同盟会の本部のような100年前の木造建築物の痕跡は見当たらないが、昔の写真と見比べると、道路と現存する建物の位置から、台湾議会期成同盟会と『台湾』の出版社の跡地を推定することができる。たった100年前のことなのに、夕日の下の人通りや情景にかつての面影はなかった。

当時の台湾議会設置運動と日本政界との盟友関係は、筆者が以前の記事で触れた植村正久牧師を介し、運動の中心人物である蔡培火が築いていったものだ。台湾議会設置運動を支持した日本の政治家の多くは、キリスト教のヒューマニズム思想を持つ自由派議員だ。たとえば、貴族院議員の田川大吉郎や清瀬一郎が挙げられる。

しかし、自由派議員は日本の議会の中では常に少数派だった。数の壁を越えるために、ロビー運動では主流である各方面の保守派政治家との接触も諦めなかった。たとえば日本の議会への請願の際に紹介議員を務めた神田正雄、衆議院議員の中野正剛、何度も入閣を果たした永井柳太郎、貴族院議員の阪谷芳郎らなどが挙げられるが、彼らは全て「内地延長主義」の支持者だ。

彼らは「植民地における特別統治制度の撤廃」という立場から台湾議会の設置を支持したのである。その他では、林獻堂を中心としたパトロンも、日本で選挙の際に政治献金をすることで台湾を支持した。

しかし、この15年にわたる台湾議会設置の請願運動に、時代は逆風をもたらすことになる。活動は日本が戦時動員体制に向かうに従い、衰退していったのだ。

台湾アイデンティティーの「空白の記憶」を求めて

20世紀初期に世界各地の植民地で生まれた国や民族的アイデンティティーとして、台湾アイデンティティーは同時代の中で最も不運なものだと言えるだろう。台湾アイデンティティーは1920年代の東京でその雛型が誕生し、「台湾議会設置運動」が展開された十余年間は光当たる時代だった。

東京で生まれた台湾アイデンティティーは1920年~1947年にかけて台湾島へ帰還するが、不運にも太平洋戦争期の戦時体制が訪れ、中華民国による弾圧を経て、1947年の2.28事件で徹底的に打ちのめされた。

その後、ゆるやかに流れた半世紀で台湾アイデンティティーは、日本や北米にいる台湾人や台湾コミュニティの中で代々引き継がれ、90年代の台湾民主化後に海外から逆輸入という形で帰って来たのだ。そして民主化に伴い、台湾を中国の一部ではなく、「独自の文化を持つ台湾である」と考える「台湾本土化」という考え方と政権交代によって、台湾アイデンティティーへの関心が高まっている。

2020年は台湾アイデンティティーが誕生して100年、ちょうど1世紀を迎えた。今後、過去70年間、風前の灯火となっていた台湾人の民族アイデンティティーにとって、最大の難題は台湾アイデンティティーが内包する「空白の記憶」と「記憶の断片」をどのように埋めるかである。特に、初期のもの、そして台湾から離れた地における集団の記憶が最も失われた一節であると言える。

その一節は東京にある。だから筆者は「散歩」という形で記録し続けるのだ。

バナー写真=1923年2月21日に、第三回「台湾議会設置運動」の時、東京駅丸の内口前の井上勝氏銅像の前で撮影された台湾議会設置を求める代表団の集合写真(写真提供:蔣渭水基金會)

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